昭和50年3月3日 朝の御理解        
(前半聞き取り難い所があり聞き取り出来ない)



 御理解第三十三節 「お供え物とおかげはつきものではないぞ」
 この御理解を、金光様のご信心は、お供え物と言ういやに・・した言う風に、合楽に来る人は幾らあげなければと言う様な金光様は、お供え物の事を言われんから言う様な・・・合楽に久保山さん・・合楽にご縁・・・お道の信心は奉る道。  
例えば昔の考えから、神様に例えば抱えられ、其の為には何時も命を・・・投げる気でそう言うそれを武士道・・武士道死んで行く事・・・言うならばお道の信心は奉る道、・・侍が殿様の前に言うならば何時も命を預ける様に、お道の信心は、何時も天地の親神様の大恩を言わば受けておるのですから、その神恩報謝の心と言う物は、そのまま・・・道でなからなければいけません。
それは・・・・・・その命までも、何時も神様の前に捧げておると言う生き方、お道の信心が解ると言う事は其処を解ると言う事、天地の親神様の言うならば、ご恩恵なしには生きられない、ご恩恵の中にある・・・が、神様の前に何時も一切を捧げ切った、・・・させて頂く事が本当だと言う事を、まあー言わば解き明かしてあるのがお道の信心だと思います。
そこでそれをまー、ま、具体的に頂きますと言うならば、自分の今日一日を神様へ捧げて、私は朝参りを神様へ言うならば、今日の命を預けると・・捧げておられる・・・・お供えを・・・・・そう言う考え方からでないと、本当の信心は生れて来ません。神様から何か貰う為にお参りをすると言う、なら神様に捧げておる印しですか、それが言わば儘よと言う、儘よと言う心・・・・十分に、十二分の徳を受けようと思えば儘よと言う心、儘よとは死んでも儘よ、命を掛ける、そしてまあー言うならば・・れた命を又頂く、言うならばお供えをするお三宝の上に上げてしまう、そしてそれを、又お下げ頂いてそれを頂く、それが・・・と御用に継ながる是にはもう我が無い、神様からのお下がりを頂いて、例えば・・・からかえって・・・・頂く、お掃除をさせて頂くそれぞれの御用にお使い回しを頂く。
今日頂いて来た命を、そこに今日一日の御用にならせて頂く、そう言う生き方がお道の信心、毎日毎日が言わば捧げ尽くした、と言う事は命までも捧げ尽くした、所謂命をお供えする、そのお供えした命を又明日もお下がりを頂いて帰る。言うならばもう日々が神様から頂いたこの命と言う事になる。それでその命を今から畑で仕事をさして貰う、御用をさして貰う其の事に使わして下さいと言う事になる。
お下がりを頂いたその命をもって、なら御飯炊事洗濯までさせて頂くと言う事になる、所謂教祖様の・・しい命である、賜った命だと言う事。そう言う私は信心のお道で言う根本の所を解からして頂いての日々。
今日も賜った命をもって御用に使うて頂いた、毎日毎日が全てを例えばそれを言うならば一切が神様の御物だと言う事、自分の家自分の財産、そう言う自分の命自分の財産と言ったり思うたり、して居る者の中からお供えをする私の、私のお金の中からその一部を神様へお供えする、そう言うお供えでは言わば本当のお供えと言う事ではない、本当のお供えと言うのは何処迄もお初穂である。
日田の堀尾先生がある時に、三代金光様にお初穂奉る時に、奉ると書いたりお初穂と書いたり色々であります、ご献費とも書いたり、ですからどう言う風に書かして頂いたら本当でしょうかと、お尋ねしたら。
金光様がお初穂がけっこうですと仰った。でその話を聞きまして私もお初穂が本当だと、お初穂と言うのは、それはどう言う事かというと、一切が神様の御物であると言う頂き方、その一切例えば釜の中に御飯が炊いてある時なら、その釜の中の御飯皆んなが神様の物であると言う見方、其の中から御神飯器に盛ってお供えをする、それがお初穂です。
そこでそう言うなら私共でも、ならそう言うお初穂出来る様なおかげをいただかにゃならんけども、私共の観念の中にはまーだ、まーだその釜の中の御飯全部は自分の物んだと思っている。そしてチョッコとばっかりお供えをすると言う事が、だからお初穂とは言わん、それは自分の物を供えるのですから矢張りそれはお初穂じゃない。
それは何処までも奉ると言う事になる、私のを貴方にあげますと言う事になる、だからそれを信心がそこまで解らせ、堀尾先生の場合はもうそこん所が解っておられる、だから三代様はお初穂がっけっこうですと仰ったんですけども、それを聞いて誰しもがお初穂と言う事は本当ではない、本当にお初穂でお供えが出来様なおかげを頂きたい。
本当のお初穂が出来ると言う事は、もう一切が神様の御物であると言う事を解からして頂いた時に、始めてお初穂と言う事が言える。そう言う風にお供えなんて言う物は、内容が二つに、自分の物をあげますと言うと、神様から頼びしもの(たびしとは、賜ると書いて)それは命もそうです、神様に賜った言うならば、食べ物であったりお金であったり、全てであるいやこの命までが神様に「たびし」命であると言う事である。賜った命であると言う事です。
そこでなら今日一日御用さして頂くに致しましても、一日一日の御用を許されて御用さして貰う。いうならば一応お供えした物をです、お下がりを頂いて今日御飯焚きをさして貰う、お掃除をさして貰う女の方は、男の方達はどっか勤めにでん出とるとならば、お供えした物をお下がりを頂いて勤めさせて貰う、働かして貰うと言う事にならなければならない。
本当の意味においての神恩報謝と、神恩と言う事が解らない、解らなければ報謝の思いも頂けない。報謝の心も起こって来ない。「お供え物とおかげは付き物ではない」自分の物をあげますと言った様なお供え物であっては、おかげがそれに伴うと言う事ではない、お供えさえしさえすればおかげを頂くと言うなら、沢山の物持ちやらお金を持っておる人やらは、どんどんおかげを頂かなければいけません、それこそ誠を持って捧げる時に、それは庭の散り葉でも神様は誠として受けて下さる。誠として受けて下さるその、お返しがおかげであり又お徳であります。そこで本当の誠と言うのは、言うなら誠と言う字はごんべんに成ると言う字が書いてある、言うならば言う事が成る、言う事が成就する、思うことが成就するそう言う意味。
じゃあその誠の本当の意味においての誠はどう言う事かと言うと、一切が神様の御物だと解からして貰う、いわゆる「たびし」財産、「たびし」命、神様に賜った財産、神様に賜った命である、だからある意味においての例えばお供え物はです、それはもう当然の事であるとしてのお供え、そう言う事に成って来る時に、私は付き物ではないと言われるけれども、必ずお徳が伴う言うならば徳積みて栄える家や菊の花と、言う様な句がありますがね、徳を積むと言う事はそう言う事だと思います。
私共は自分の例えば財産からね、真心こめてお供えをする、神様の御物一切が神様の御物と言う見方からその中からお初穂さして貰う、お供えさして貰うと言う事になった時に始めてそれはお初穂と言う事になる。今日はお供え物とおかげは付き物では無いと言う事の、内容を二つに分けて大体聞いて頂いた積りですけれども、私共の場合はそのお供えの内容と言う物がどう言う事になっておるか、自分の物、自分の財布の中から少しばかりの、少しばかりかどうか解らんけれどもお供えをすると言う、この財布の全部が入っている全部が神様の御物であると言う、神様に頂いた、頂いておるも物であるからそれを使わして頂く内容が違う、それはどう言うに違うかと言うと奉ると言う事と、お初穂と言う事に違うて来る。
まあー私共の場合には、奉ると言う事の方が皆んな殆どではなかろうかと思う、私共の願いとしては、信心が段々解からしてもろうて、お初穂としての内容のこもったお初穂が出来る様にならなくてはならん。
そこにはどう言う事になるか、もう限りない御恩恵です、限りない御恩恵に浴される所のお徳と言う事になります、一切が自分の物、一切が自分の今所有しておる、それが全部が自分のものと言う考え方から、自分の所有しておる一切の物を神様から言わば預かって居るもの、神様に賜って居るものと言う様な頂方が出来る時に、例えばそれに我情我欲と言う物が伴うはずがない、一切が神様の御物、そこで何時でも言うならば、侍は殿様の為に何時でも命を捧げる事、其の事を武士道と言う様に、信心の言うなら道と言うのは何時でも神様の前に、一切のものに「のし」を付けておれれる状態、例えば此処に一億円なら一億円ちゅう財産をもっておるとするならばです、神様がもし必要となさるならばです、何時でもその一億円の財産に「のし」が掛けてある、そう言う私は頂き方が出来て来る様になると思うです。
ですからもう例えば、お金を惜しい欲しいが第一無くなって来る、言うなら本当の楽な世界極楽の世界に心が遊ぶ事が出来る、もう是は私の事を言うならば、ならまあー別に財産が有る訳でもないですけども、なら此れだけの現在おかげを受けておる、神様が取り上げなさるというか神様が必要となさるならば、何時でも此れはもうー提供が出来る、その心の状態にある時にです言うならば汚い心等は、微塵も起こらんで済む様なおかげを受けられるんです。
自分の財産であると言う時に、例えばまあー少し金入りがあったとすると、もうそれが惜しかったり欲しかったりするです、何時までも我情我欲の虜で過さして貰うか、我情我欲のないそれこそ我が身は神徳の中に生かされてある、喜びを感じさせて頂く生活をさして貰うか、その二つの所を信心をさして頂いておっても御互い通っておる、一方は只おかげを受けると言うだけですけれども、一方はお徳を受けると言う生き方、そう言う事を今日は聞いて頂いたですけれども、皆さんの場合どう言う所に成っておるか、お供えに成っておるのか、奉ると言う事になっておるのか、お初穂として出来ておるのか愈々その、お初穂の出来れる心の状態を目指して、御互い信心を頂きたいですね。
   どうぞ。